雑記

緊急抗議声明 イスラエル・ネタニエフ政権のパレスチナ・ガザ攻撃に抗議し、 ナクバ(大破局の日)の再来を許さない!

緊急抗議声明

イスラエル・ネタニエフ政権のパレスチナ・ガザ攻撃に抗議し、
ナクバ(大破局の日)の再来を許さない!

                 
 2021年5月21日 オリオンの会

 2021年5月10日イスラエル軍はパレスチナ自治区ガザへの空爆を開始した。ガザ地区からは<ハマス>がロケット弾で応戦しているが、5月15日の「ナクバ」の日をはさんで、イスラエルの空爆と砲撃の被害は50人近い子供を含めて死者が200人を越えている。

 この事態に対して、日本のマスコミは事件報道に終始し、その背景の複雑さを口実にして、思考停止に陥っている。しかも、イスラエルと米国が好んでキャンペーンに使う「暴力の応酬」という、根本問題である占領虐殺とそれへの抵抗闘争と言う点を棚上げしている。

 国連も含めて国際世論は「即時停戦」を主張し続けているが、米国の「イスラエルの自衛権支持」(バイデン大統領の声明)のように、安保理決議も米国の拒否権発動で声明一つ出せないでいる。イスラエル軍の空陸からのパレスチナ攻撃は、戦争の域に達している。

 そもそも、ユダヤ人問題―シオニズムをめぐる帝国主義間の闇取引によって発生させられたパレスチナ問題は、宗教問題、領土問題、民族問題の全てを含めたまま、米・英・仏などの帝国主義支配階級がパレスチの地に人工国家イスラエルを急造させてしまったところから始まった。それ以降も、「オスロ合意」などの和平解決が目指されたが、イスラエルはそれをも反故にして占領地域に入植地を拡大し続けて今日に至る。

 今回の東エルサレムに端を発した戦闘は、2017年トランプ米国政権が、国際管理都市エルサレムを「イスラエルの首都」だと一方的に容認し、翌年アメリカ大使館をエルサレムへ移転させた国際合意違反が基本にある。それを機に、イスラエルはパレスチナ人居住区の東エルサレムを「イスラエルの領土」と宣言し、住民を強制追放し始めた。

 その上で今回、ラマダン(断食月)の礼拝に集まるパレスチナ人に対してイスラエル軍がバリケードを築いて阻止した為に、パレスチナ人の累積した怒りが爆発し抗議行動が拡大していった。

 現在、パレスチナの民衆は、全土で分離壁によって閉じ込められ、日夜ドローン監視下でイスラエル人入植地の拡大の為に追い立てられている。パレスチナ抹殺の攻撃にさらされ続けている。この事態に対して、世界はあたかも見て見ぬふりをする結果になっている。

 しかし、パレスチナ民衆は、インティファーダ(「蜂起」)、グレートリターンマーチ(「帰還の大行進」)などの抗議と抵抗の戦いを展開してきた。

 パレスチナの民衆は今、1948年イスラエルの建国を巡って起きた第一次中東戦争によって、多くの犠牲者、そして70万人の難民を生んだ「ナクバ」の日を想起し、「ナクバの再来を許すな!」と叫んで抗議と抵抗を展開している。


 オリオンの会は、1972年5月30日「ディルヤシン作戦」として虐殺されたパレスチナ民衆のイスラエルのテルアビブ・リッダ空港攻撃闘争の主軸を担った、奥平・安田・岡本の3戦士の国際主義の闘いを継承し、レバノンに政治亡命している岡本公三君の支援を続けて来た。

 私たちオリオンの会は、今回のイスラエル軍のガザ攻撃を厳しく批判し、イスラエルによるパレスチナ民族浄化につながる「ナクバの日」の再来を許さず、パレスチナ解放を世界の民衆と共に訴えていきたい。

イスラエルによるパレスチナ虐殺・民族浄化の暴虐を許すな!
日本政府は、非人道国家イスラエルとの軍産共同政策を破棄せよ!
パレスチナの民衆と共に、平和と解放を求め続けよう!

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歴史の分岐点―1970年3月よど号H・J そして11月三島由紀夫自決

歴史の分岐点―1970年3月よど号HJ そして11月三島由紀夫自決

11・27 大越輝雄

 

 1970年3月31日、日航機よど号をハイジャックして、田宮高麿を始め9名の赤軍派が北朝鮮に旅立った。同じ1970年11月25日、三島由紀夫が盾の会の学生4人とともに市ヶ谷自衛隊駐屯地に乱入し、会員一人と割腹自殺した。

 

個人的な回想―獄中の1970年

 1969年11月6日、共産主義者同盟赤軍派中央軍は、前段階武装蜂起として、行政権力の頂点である首相官邸占拠を実行することによって自衛隊を引き出し、霞が関を包囲する憤激した民衆の決起によって世界同時革命の先端をこじ開け、ベトナムを始めとする世界の民衆決起と国際連帯を呼びかけようとしていた。実に主観的であり、呼びかけに応じて民衆は立ち上がってくれるという革命的楽観主義を背景にしたものであった。大菩薩峠軍事訓練に参加した56人のうち、多くの参加者は軍事訓練の後、下山してそのまま首相官邸襲撃という計画を知らないままだった。にわか仕立ての中央軍といっても過言ではない。20名ほどが未成年の高校生、労働者であったが、彼らの方が純粋に変革を求める確信犯に近く、学校、職場、家庭環境などの矛盾や差別などに敏感な層であった。彼らは未成年ということもあり結果として不起訴になったが、当時の社会は赤軍派関連者を受け入れるには政治的緊張が続いており、困難であった。よど号に乗ったYS、そしてM作戦のSなど多くのものは個人的な闘いをそれぞれの場で継続していった。

 大菩薩峠軍事訓練の行動は確かに公安警察にバレバレで、山荘で一網打尽という不甲斐ない結果になった。そして、加波山事件など自由民権運動急進派の爆裂弾に始まり幸徳秋水の大逆事件や大正アナーキズムを取り締まった公安罪―爆発物取締罰則が適用され、凶器準備集合罪、殺人予備罪なども加えられて起訴され、破防法の適用検討対象にもなった。彼らは16人の統一公判組を中心として獄中闘争を開始していった。「獄中組合」や「図書救対」「赤色救援会=モップル社」の結成、「獄中通信」を通しての論争の開始など、後に言われる〝人民の海″ネットワークに着手したのであった。

 1970年3月、私たちは獄中生活にも慣れ、公判準備と戦列への隊伍を整える時期でもあった。そうした時に突然拘置所のラジオは打ち切られ、官回覧新聞(読売新聞)が広告欄を除き真黒に墨塗りされて配られた。正直に言って、この情報封鎖は革命とまではいわないが、何らかの決定的な闘いが開始されたのではないかと期待に胸を震わせた。そうした日が4~5日続いただろうか。「赤軍派学生が日航機を乗っ取り、北朝鮮に向かった。」という話が漏れ聞こえ、新聞墨塗りも徐々に減少されていった。<ハイジャック>という表現もまだなかった時代の、この大胆な戦術に対して私たちは「断固支持!」の激を発信していった。

 そして同じ1970年11月25日、三島由紀夫の自衛隊東部方面総監部(当時)乱入、自決である。この日は大菩薩峠闘争の統一公判日でもあった。霞が関の裁判所は、市ヶ谷の自衛隊駐屯地と、皇居を挟んで反対側にある。今思えば、報道のヘリコプターが空を飛び交い、外の騒がしさは尋常ではなかった。すぐに弁護士から三島由紀夫決起の件を告げられたものの、三島の突入の意味を知るには限られた情報の中で時間がかかった。ただ「春3月の赤軍派のハイジャックと秋11月の皇道派三島由紀夫の決起」は左右の大きな分岐点という予感がしたものだった。

思い返せば、僕が大菩薩峠に搬入する鉄パイプ爆弾を福島経由で弘前まで受け取りに行く直前に観た映画は、中島貞夫監督、笠原和夫脚本の東映映画「日本暗殺秘録」であった。幕末からの日本暗殺史で、その多くはギロチン社、血盟団小沼正など大正、昭和初期の暗殺史であった。天皇制の「一君万民」や社稷の思想を前提としながらも農村疲弊や貧困を契機にした青年の決起に一部共感しながらも、僕たち左派との違いは<天皇>と<国家>が大きな分岐点であるという確信だけは持っていた。共感の背景は、血盟団などは少なくとも民衆の<下から>の決起が主因であったことである。他方三島由紀夫の決起は、11月25日の<檄文>の中で、「(アメリカ追随の)護憲の軍隊になるのか、(文化概念としての)天皇の軍隊になるのか」として自衛隊の決起=クーデターを呼びかけたように、天皇と軍隊を主軸にした<上から>の決起である。

 あれから50年、1970年の高揚感―赤軍派にとっては、国際根拠地で武装訓練し、同年秋の蜂起に向けた革命の輸出の実現、三島にとっては、自衛隊の決起によって憲法改正をして共産革命を阻止する使命の実行―という夢想は、歴史のごみ箱にばらばらに葬り去られようとしている。しかし、50年という歴史の幅は、語るものをして語らしめることによって終息するには、まだ生暖かい歴史の感触が残っているのではないだろうか。

 

1970年という歴史的制約と歴史的分岐点

 僕たち赤軍派を含む当時の青年、学生運動に対して、高度成長期の甘えと、30%ほどの大学進学率からエリート主義として、「長い髪を切って資本主義という現実に回帰していった」という論評で済ませることが通念になっているようである。しかし日本の高度成長は、重化学工業化と地方―農村の解体であり、教育―大学の産学協同による再編と世界分割戦―日本のアジア侵略の開始として分析され、1967年佐藤首相アジア歴訪阻止10.11月羽田闘争を先陣として、現地闘争、学園闘争として戦われていった。高度成長による生活様式の変化と個人主義の浸透に対しては、平和の中の息苦しさ、生きにくさがあり、その対抗軸として<自己否定><アンダーカルチュア―・対抗文化>として大きなうねりを形成していった。手法としては<直接行動>である。象徴としてのヘルメットにタオルマスクで学園であれ、三里塚であれ、反公害闘争であれ登場した。

 そこに大きく欠落していたのが、当事者性と歴史に向き合う姿勢であった。特に明治以降のアジア侵略と加害責任に向き合う姿勢である。当事者性としてはジェンダー(ウーマンリブからの糾弾)、環境・公害(水俣病患者からの糾弾)、アジア侵略(華青闘からの糾弾)、部落差別(狭山闘争)などが、70年安保闘争の匿名性の闘いの後、一斉に表面化したのであった。それはヘルメットとタオルの匿名性を拒否するものであった。

 1970年3月のよど号乗っ取りは、乗客に顔をさらすことによって、たとえ大きな誤りであったとしても本音の交流ができていった。11月の三島のバルコニー演説もまた、無残であったにせよ、三島由紀夫自身と楯の会をさらすことによってその限界を歴史的遺産として残していったのである。

話は飛ぶ。奥平、安田、岡本による1972年5月30日のテルアビブ・リッダ闘争は、匿名性からの脱却であった。学生の決起に共感し、東大全共闘との対話で「天皇という一言があれば諸君と共闘する。」と語った三島由紀夫はこの闘いをどう評価するのだろうか。一人一殺の右翼的信条ではなく、天皇でもなく、パレスチナ民衆の大義に基づいた国際連帯のリッダ闘争に対して、それでも「天皇」と呼びかけることが出来るのであろうか。

  いずれにしても、あれから50年である。

 1970年という年は「過激派」という表現が定着した年でもあった。警察―公安も機動隊による暴力的圧殺とともに、自警団―町内会も動員し後のローラー作戦も担保するソフト警察へ転換するとともに、内ゲバ、暴動、爆弾などの「非人道的」というネガティブキャンペーンによって、私たちが「人民の海」と言っていた支援網を解体し、反体制派?を浮かび上がらせ叩く作戦に出た年でもあった。この背景にはべ平連のジャテック(脱走米兵支援)支援網や、1970年11月20日沖縄コザ暴動のように民衆の憤激や爆弾ゲリラ闘争の多発などがあった。このように警察主導の下に市民、住民を扇動し、危険分子=過激派として反体制左翼の分離と抑圧を進めるという手法は、支配階級が1923年関東大震災における労働組合活動家、無政府主義者や朝鮮人虐殺に学んだ上でのシステムだということを決して忘れてはならない。そうした監視体制は、2001年アメリカ同時多発テロ以降のテロ対反テロという非対称的な戦争状態の中で、通常のこととなっている。

現在、国内の社会主義革命を基軸にした左翼潮流は解体もしくは停滞の状況である。労働の結合=労働組合は、組織労働者=本工主義としてむしろ非正規労働者、相対的過剰人口と敵対し、たとえ良心的部分でもせいぜい社会民主主義=福祉国家論である。環境破壊で存在すら危機にさらされるとともに賃金奴隷として搾取と隷従に置かれている民衆は、資本主義国だけではなく、中国も含めてグローバルに存在している。だからこそ私たちは「全世界を獲得する」世界同時革命の現実性を追求していかなければならない。ブラック・ライブズ・マター(BLM)は、政策反対闘争、人種差別反対闘争に止まらず、人類史―植民地というタテ軸と、ジェンダー―コモン、国際連帯というヨコ軸が結合した闘いになっており、私たちの闘いに大きな示唆を与えている。教訓を過去に滞留させるのではなく、現在進行形の世界と切り結ぶための、今を闘う総括実践方針とすることによって歴史の継承性が担保されるのである。

 よど号ハイジャック、三島由紀夫自衛隊突入、沖縄コザ暴動、そして12月18日京浜安保共闘の東京板橋上赤塚交番襲撃など、1970年は歴史的分岐点であり、その後の民衆の運動を予兆させる年でもあったことを新たに思い起こそう。

大道寺将司さん、お疲れさまでした。

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大道寺将司さん、お疲れさまでした。献杯!

闘いは、終わらない。

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「『オリオンの会』ホームページを手伝ってくれないか」
そう言われ、現状のホームページを見たのはいいのですが、もうどこから手をつけていいのか分からない。

そうこう思案するうちに時間が過ぎ、とりあえずできることからやっていこうと思い、ブログを立ち上げました。

そもそもオリオンの会ってなんだと申しますと、簡単に言えば岡本公三氏を支援する有志(元・赤軍派、元・日本赤軍、ただのオッサン等)の会であります。
私の知る限りでは2014年の年末にゴールデン街で忘年会的な決起飲み会が行われたのがはじまりかと思います。
(※【6.20修正】正式な会の歴史は以下との事です。→「『オリオンの会』自体は10年以上前からある組織。ただし、関西を中心に岡本公三さんへの経済的支援に徹していて、対外的な運動体としては活動してこなかった。表現としては、「関東でも積極的に岡本公三支援に関わろうと、2014年末から組織的に活動を開始した」)

岡本公三さんは1972年5月30日に起きた「リッダ闘争」別名「テルアビブ空港乱射事件」を担った3戦士の一人で、この闘いは後に日本赤軍と呼ばれる組織の起点となります。

色々と分かれたりくっついたりが多いですが、めちゃくちゃ簡単に繋げていくと

共産主義者同盟赤軍派→アラブ赤軍→日本赤軍→ムーブメント連帯→オリオンの会

となります。
新左翼の人たちはすぐ怒ったりケンカするので、このような簡単な繋ぎ方をすると怒鳴られるかもしれませんが、まぁだいたい関東の方ではこんな感じ、と思ってもらえればよいかと思います。


このブログではその、「ホームページ手伝え」とオルグされたakame712が活動報告や寄稿文の転載等を行っていきます。
編集権は全権委ねられているので、何か腹がたつことがあったらここで報告します。
元過激派のオッサンたちと付き合うのは楽ではありません。

ただ、基本的に私はこのオリオンの会にいるような「闘うことを忘れない」オッサン達に社会的な意義を感じます。
彼らは彼らなりに今の社会になじむよう、かつてへの反省と自分達なりの闘争を続けています。
だからこそ、私のような左でも右でもなんでもない「ただの人」に声がかかったのでしょう。


私自身は市民生活を逸脱する勇気や怒りを持ち合わせていません。
ただ、奥平剛士・安田安之・岡本公三が1972年に身をもって提示したこの問題は、まだ終わっていません。そして、テロという言葉は時代や場所で変容し、その言葉が持つ意味をかえりみられないまま「悪」として国際社会に認識させられています。



この文はリッダ闘争が切り開いた地平が、今なお続くことの証明です。
私としてはこのブログがリッダ闘争やパレスチナ問題、その他世界に在るあらゆる不平を考えることへの一助になればと思います。
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